解雇法理と現実の事情

自分を自分で守るということは現実に非常に難儀なことです。

ときには修羅場を冷静な判断で一人で乗り切ることも強いられてきます。

まわりに援助を求めるにしても最終判断は自分が決めなければなりません。

ここで一番いやなテーマであり、かつ重要な難問について、
自分で考えていることを述べてみたいと思います。

解雇法理をテーマにしたものなので、まずは解雇法理の定義を確認する。

「使用者の解雇権の行使も、それが客観的に合理的な理由を欠き社会通念上相当として是認することができない場合には、権利の濫用として無効になる。」
(最高裁二小判、昭和五〇年四月二五日、日本食塩製造事件)

この文章を一読した人はまずは何を言っているのかわからないという事を
感じるのではなかろうか。

労使紛争の現場でこの言葉を主張されると、
この世の言葉とは思えないほどムッとくる。

「解雇」は労使の紛争で精神的に負担が重くのしかかってくる問題の一つである。

「客観的に合理的な理由」の認否の問題はある程度理屈で押し通していける。

「社会通念上相当として是認」できるか、できないかは相当修羅場を迎え撃つ戦いになってくる。

精神的にも、この議論をすることはかなり苦しむ。

会社が社員を解雇するときに雇用継続には困難をきたすことを
会社は立証して主張しなければならない。

例えば、会社が解雇した社員について、

「業務に対して再三注意したにも関わらず覚えが悪く能力が足りない」
「業務に対して再三教えたにもかかわらず成績不良であり改善の見込みがない」

なるものを主張する場合、それも「著しく」と言う条件をつける。

これを立証しながら主張するときは憎悪を表にだして
これ以上の言葉はないと言う表現を使い罵詈雑言を行う。

このような事を会社から主張された場合に
解雇された従業員はどのような感情におちいるであろうか。

この世で自分は何の役にも立たないと会社から主張されているようなものである。

解雇されたという事だけでも精神的疲労はたまっているはずである。

会社からは追い打ちをかけられてくる。

それを今度は従業員が会社に対して切り返していかなければならない。

かなりの精神力が必要である。

また雇用の継続ができないほど「適格性の欠如」があり、
「協調性に欠ける」とほとんどの従業員から嫌われていると会社が主張した場合。

会社の社員も総動員して証言を会社が提出して、
社員同僚達に解雇した社員の悪口を言わせる。

このような修羅場が延々と継続して議論されていく。

終わるころは解雇を争っている社員も精神的にまいってしまう。

このような経験をした社員はこれからの人生観が変わってくほどの
つらい経験としてとらえていくのではなかろうか。

解雇回避措置などほとんどの会社は行っていない。

しかし、裁判の準備のため形式的に行って
解雇回避努力は行ったという主張はできるようにしている。

このような修羅場をなぜ裁判所はつくるのか。

解雇法理そのものが、企業経営への過剰介入に該当しているのではないか?

会社と社員との雇用関係に過剰に介入しているのではないか?

現代のような激変している経営環境の状況にはそぐわない法理なのではないかと
考えることもある。

裁判所に苦情を述べるわけではないが、
これほどまで、会社と社員を相対立させてまでしなければ
解雇の解決はできないのか、大いに疑問が残るところである。

しかし、労働者側の立場で考えると
弱者の救済にはこれくらいの厳格さが「解雇」にあって
しかるべきと言うことにもなるかもしれない。

それでも、社会環境を全体的に見通す視点では、
やや違和感を感じるところでもある。

ここまで厳しい議論しなくても、もっと簡略的な法理があっても
いいのではないかという考えを持つときもある。

なによりも困るのは、裁判官の価値判断で解雇の判断基準が動いていくということは
非常に困るのである。

解雇が無効か有効かは概略見当はつくこととしても、
微妙なところでなんとも言えない判断基準もある。

やはり労働契約の解約については現在の解雇法理をもうすこしゆるやかにして、
あとは、退職後の経済的援助、国の制度で再就職支援制度などを充実させていく。

失業保険だけでは不十分である。

労働契約の解約条件についてはもう少し規制緩和して
労働者の経済的救済制度を充実させてほしい。

しかし、現実は企業の労働者に対する責任義務の方が
先に規制緩和されているような気がする。

この世のならいは、いつも真っ先に「弱者」が処遇・待遇を譲歩するところから
はじまって改革が進んでいるのではなかろうか。

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