ブラック企業と戦うということは

若者と一緒に企業と戦う時はある。
時々感じる時がある。

自分の考えと協調できない、企業も自分の文化を持っている。
そこにはギクシャクするような感情が漂ってくる。

会社は、「うちの会社が合わないのであれば転職してもいいよ。」と言う。

このようなとき自分でやめて、解雇されたという言葉で主張し、
ブラック企業だと騒ぎ、弁護士に頼んで裁判に持っていく。

おたがいの主張の食い違いもあることは推測できる。

しかし、ビックリするのは企業側である。

会社もどうしても受けてたたざるを得ない。

しかしそこに使うエネルギーはかなりのものになる。

自分の都合の良いところだけの事情を切り取って、
その背景にあるものは一切説明せず、弁護士に弁護の依頼をする。

弁護士はその言葉をうのみにして、純粋な気持ちで闘う。
私も時々そのようなことに遭遇することがある。

このような案件を会社側で支援をしたり、労働者側で支援をしたりする。
少し複雑な気持ちになる。

たんなる会社内の「ちわげんか」にすぎないのではないかと感じる時がある。

このような事を司法の場に持って来られても困る。
裁判所も受けてたたざるを得ない。

私はこれから、どんな些細なことでも純粋に許せないことが起きた場合は、
自分独自で誰にも頼まないで司法で処理できる社会になってほしい
という願いは強く持っている。

それは純粋な気持ちでどうしても許せないという
強い気持ちが起きたときに闘ってほしい。

裁判所は社会が考えているようなものより、
かなりやさしく問題解決に誘導してくれるところである。

私はいつも思う。

社会には純粋な気持ちで立ち向かってほしい。

もし、自分の正義感で許せない出来事がおきたら、
相手がどのような大物であろうと徹頭徹尾闘ってほしい。

体力があるときは安易な風潮のままに流されて生きても、
それなりに生きては行けるであろう。

しかし、その付けは熟年以降の年齢になると、
やがてその人生で生き抜いてきた差が大きく開いていく。

つけがまわってくる。

純粋に生き抜いていくということは、
高齢の人生を迎えるころから、
たくましく生き抜いていく力が自分自身に備わっていることに気が付き始める。

その行動は死ぬ寸前まで生き抜いていくのである。

私の周りの人たちをみているとひしひしと感じる。

高齢化社会と言うものはまことに厳しいものがある。
その人生がとてつもなく続いていく。

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